サイコパスと今度の彼/彼女。
今のところは「パーフェクト」のようだ。とりあえず交際も順調そうに見える。
今のところは「パーフェクト」のようだ。とりあえず交際も順調そうに見える。
奴は今、例の「理想化」作業にせっせと取り組んでいるところだよ。
あなたに代わる新犠牲者のことをさかんに持ち上げ、天にも昇るような心地にさせているらしい。
その様子、いちいち見せつけてくるのだから、まったく癪に障るよね。
(あなたに気付いてもらえるようにとケチな小細工施すところがまた、何とも腹立たしい限り。)
「自分には無いけど、今度の相手にはあるもの。
さあ、それって一体何だろう...?」
答えは出ない。なのに、あなたはそれでも自分に問い続ける。
でもね、「完璧な二人」の蜜月期って、そう長くは続かないんだよ。
理想化のプロセスが一段落すると、あっという間に退屈するのがサイコパス。
そうなると、次から次へと頭の痛いことが押し寄せてくるはずだ。
心なしか、奴の顔にも疲れの色が表れ始める。
この苦しい気持ちからどうにかして逃れたい。自由になりたい。
そこで今回新たにスタートするのが、新犠牲者へのいじめである。
ただ、犠牲者をもてあそび、傷めつけたところで、得られるものはそう多くない。
ほんの束の間の解放感でも得られれば、それで御の字としよう。
ただ、これもまた、一時しのぎの解決策でしかない。
サイコパスにちょっとやそっとの刺激を与えてみたところで、──たとえば、犠牲者がひざまづき涙ながらに命乞いするとか、自ら墓穴を掘って破滅していくとか──何か極端なことでも起きない限り、奴らの荒んだ心はますます荒廃の一途をたどる。
「もっとくれ、もっとくれ!」と叫ばずにはいられなくなる。
かくして、終わりなき虐待のサイクルは幾度も幾度も繰り返されていくのであった。
「あの人、私と別れた後に一緒になった他の誰かと、本物の幸せを見つけられたかな...?」
まだそんなこと考えているのかい?
幸せなんて、見つけられるわけないじゃないか。
だって、あれだけの猛毒と侮蔑とをあなたの顔面めがけてブシャッ!と吐き出すような奴だよ。
そいつがある日突然、別の誰かと巡り会い、たちまち恋に落ちる。
そして二人はいつまでも幸せにくらしました、めでたしめでたし...
どう考えたって、そうはならない。
猛毒と侮蔑。
この二つを、愛情と共に併せ持つことなんて、まず不可能だろう。
最後の最後には必ず物別れに終わるから。
あたかも水と油のように。
Psychopath Free (Expanded Edition): Recovering from Emotionally Abusive Relationships With Narcissists, Sociopaths, and Other Toxic People
posted with amazlet at 18.03.08
Berkley (2015-09-01)
【参考資料】
「本当の退屈がどんなものかを理解するには、子ども時代を思い出すといい。幼年期から思春期にかけての子供はよく退屈する。耐えがたいほどの退屈を感じるのだ。
(...)
さいわい、大人はたえず刺激を必要としたりしない。ストレスはあっても、刺激が耐えがたいほど過多でも過少でもない、かなり穏やかな覚醒状態の中で生きている。
だがサイコパスは、つねに過剰な刺激を求める。スリル中毒とか危険中毒など、中毒という言葉が使われることもある。
こうした中毒が起きるのは、刺激への欠乏をおぎなう最良の(おそらく唯一の方法が、感情的な生活であるためだ。
多くの心理学の教科書には、覚醒と感情的反応という言葉がほぼおなじ意味で使われている。
私たちはほかの人びととの意味のある結びつきや約束ごと、しあわせな瞬間やふしあわせな瞬間から刺激を受けるが、サイコパスにはこの感情的な生活がない。
人との関係の中でときにつらさやスリルを味わうという、つねに覚醒した状態を彼らは経験することがないのだ。」
(「良心をもたない人たち」マーサ・スタウト著、木村博江訳、草思社文庫、pp. 249-250 )
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