2019年9月11日水曜日

無邪気さの消失【2】

僕らの中からは以前のような無邪気さが消え失せてしまった。
残念ながらこれは事実だ。
僕らにはもう、絶えず他人を警戒し、片時たりとも気を抜くことができないような、そんな不毛な人生しか残されていないのだろうか。


いや、そんなことはないはずだ。


確かに無邪気さという性質は失われたかもしれない。
だが、それと引き換えに得られたものもある。
周囲の世界や人間関係を、より現実的な角度から冷静に見られるようになったじゃないか。
晴れてこうしたスキルを習得できたのだから、苦労した甲斐もあったというものだ。


もちろん、以前の僕らはこんなじゃなかった。
当時の僕らがやっていたのは、僕ら自身の中にある善良さというフィルムを、無意識のはたらきという映写機を使い、正面のスクリーン、つまり目の前に現れた人物の上に投げかけて作品を映し出す、といった作業であった。
これ、世間で言うところの「いい人」ほどやってしまいがちだ。
で、「ああ、この人もきっといい人に違いない」と早々に評価を下してしまう。


こうした心のはたらきは「投影(projection)」と呼ばれている。
多分、あなたにも思い当たるところはあるんじゃないかな。

https://pixabay.com

人の本性を見抜けるようになりたい。
あなただってそう思っているよね?
だったらまず、その人がどう振舞うのかをじっくりと観察する習慣をつけよう。
実際にどんな行動に出たか、に注目しよう。大事なのは言葉じゃない。行動だ。
そうすればその人の人となりについての情報はひとりでに浮かび上がってくるよ。
人物評価を下すのはそれから後でも決して遅くはない。



ね?
悪いことばかりじゃないよ。
サイコパス体験を経なければ、このような先々まで役立つスキルを身に付けるチャンスは得られなかったかもしれない。


最初の頃はとにかく悲しさで心が押しつぶされそうになるだろう。それ以外の感情はほとんど湧かない。
そもそも、無邪気さが完全に自分の中から消え去るまでの期間は、心の内側で何が起こっているのか、自分でもよくわからないはずだ。
なくなってはじめてその存在に気付く。
あなたにとっての無邪気さもまた、そういう類の性質だったようだ。


これまで虐待経験を無事乗り越えた人々(サバイバー)にいろいろと話を聞いてきたけれど、次のような感想を漏らしている人が案外多かったように思う。

【悲しみや怒りといった感情を、どうやって外に向かって表現していいのかがわからない。】

いやな顔一つせず、常に明るく、他人のために走り回っている便利屋さん。
生まれてこの方ずっと、家族や周囲の人々からはそうした役割を期待されてきた。
仕事をこなしていく上で、生々しい感情なんてものは邪魔でしかない。
湧いてきたら、即、封印。
彼らにとって、それはごく当たり前の対処法だった。


やがてこうした人々の内面世界は

【誰にでもきっといいところがあるはずだ。 短所ではなく、その人の長所に目を向けてあげよう】

といった「性善説信仰」にじわりじわりとむしばまれていく。
その思い込みは日に日に強まるばかり。一向に衰えることはなかった。
目の前で展開されている光景がどれほど醜く、そして忌まわしいものであってもなお、その頑固な性善説信仰はびくともしなかった。
「欠点ではなく、むしろ長所に着目しよう。」
これがあなたにとっての金科玉条となったのである。


そして遂にサイコパスが登場する。


「どうか良い方へと変わってほしい」
もともとは光輝く「性善説」に満ち満ちた心の持ち主だった、あなた。
持てる全エネルギーを注ぎ、身を粉にして奴のためにさんざん尽くしてみたものの、結局あいつは何も変わらなかった。変わるどころか、その傍若無人ぶりはますますエスカレートしている。
これほど手強い相手に会ったのは生まれて初めてだ。


それでもあなたは諦めることなく、奴に振り向いてもらいたくて、必死の努力を続けた。
少し前に書いた「認知的不協和」という現象も、ちょうどこの時期に生じてくる。
何をやっても、どれだけ尽くしても、あなたの祈りが奴に届くことはない。
全てがむなしく空回りするばかりだった。

────────────────────────────────
【*注:参考記事 「認知的不協和の意味と例」より

「人は自分の信念や、それまでの行動内容とは矛盾する、"新しい事実"を突きつけられると、"不快な感情"を引き起こします。その結果、自分の信念や行動と、"新しい事実"のどちらか一方を否定して、矛盾を解消しようとします。これを認知的不協和と呼びます。そのとき、信念を変えることが困難な場合、人は"新しい事実"の方を否定しようとします。」


論理的思考力と論理的な討論 議論 ディベート ディスカッション のHP(http://ronri2.web.fc2.com/index.html)より引用させていただきました。】



【明らかにダメな相手なのに、無理やり良い相手であるかのようにこじ付けて自分を納得させる】。これも立派な【認知的不協和】と言えます。


~いかにもありそうな話(フィクション)~
「彼、私の誕生日には泊まりでどこか旅行に行こうね、ってあれほど言ってくれたのに。LINEも既読スルーで、もう一週間も音信不通。仕事、忙しいのかな...彼、新プロジェクトの件ではすっごく上司から期待されてるって嬉しそうに話してたもの。ここで頑張らないと後が無いから、とも言ってた。
...そうだよね、忘れられたわけじゃないよね。仕事のことで頭がいっぱいなんだと思う。ここはひとつ、彼の大変な立場を理解しなくては。待っていれば必ず連絡が来るだろうから、黙って応援することにしよう。」
ーーー>その後間もなくSNS上に流れてきた写真で、彼女はこの彼氏が別の女性とハワイで楽しい休日を過ごしていたことを知った。
────────────────────────────────


【理想化】、そして【脱価値化】
天国から一気に地獄、地獄からまた天国へ、といった具合に、両極端の状態を何ヶ月にもわたって行き来させられたことで、あなたの精神は徐々に平衡感覚を失っていく。
一体相手の真意はどこにあるのだろう。
先の展開は全く読めない。



「愛してるよ」
あの人の口から確かにこの言葉を聞いた。
諦めるのはまだ早い。望みを捨てずにいよう。もう少し待ってみよう。
そう自分に言い聞かせたことも、ただの一度や二度ではなかったはずだ。
だが、当時、あいつがどのような行動に出ていたか、思い出して欲しい。
果たしてそこに愛情はあっただろうか?
奴の言っていることとやっていることとの間には、深く大きな溝がありはしなかっただろうか?


罵倒。
非難。
浮気。
嘘。


そもそも、二人が本当に愛し合っていれば、こうした負の要素が間に割って入ることなど、まずあり得ない。
愛あるところに「もう死んでしまいたい」という自殺念慮など生じるはずもない。
心傷ついた人を嘲り、貶めるだなんて、とても愛ある人のすることとは言えない。
あなただって心のどこかではちゃんとわかっていたんじゃないかな。
「この人の中には愛なんてない」ってことを。


そのような辛い体験が積み重なって、一人悶々と思い悩む時間が増えていけばいくほど、怒りの感情があなたの心の奥深くに堆積していく。
怒りだけではない。
うつ状態もまた、日を追うごとに悪化の一途を辿っている。


身も心もサイコパスにすっかり食い尽くされてしまったかのような、そんなあなた。
かつてはまばゆいほどの輝きを誇っていた光も、今や風前の灯と化してしまったようだ。
あなたの強力な光をもってしても、あいつを改心させることだけはできなかった。
このままさらに心労が続けば、遅かれ早かれあなたの方が相手の闇にぱっくりと呑み込まれてしまうに違いない。



もはや誰の目にも明らかだ。
あなたから放たれる光の勢いは、日一日と弱まりつつある。
一体この先、どこまで持ちこたえられるのだろうか。





0 件のコメント:

コメントを投稿