2019年9月28日土曜日

無邪気さの消失【4】

「普通」で「幸せ」だったあの頃。
戻れるものなら戻りたい...。
そんな願いを抱くサバイバーは少なくない。
でも、ちょっと考えてみて欲しいんだ。


あの頃あなたが体験したことのうち、何が、どれだけ「ホンモノ」だったのかな、ってこと。


かつてのあなたは目の前にある負の要素を揉み消しては、それをせっせとポジティブな出来事へと脳内変換しようと必死になっていたよね?
そんなの忘れた、なんて言ってもらっては困るよ。


どこまでが「ホンモノ」であり、どこからが「投影」(※注)という形を取って他人の手により映し出された毒まみれの虚像だったのか。
そもそも「ホンモノ」成分の割合なんて、全体のうち大体何パーセントぐらいあったのだろうか。
今思い返すと、何もかもがうさん臭く見えてくるから不思議だ。

※注:以下、前々回掲載部分・「無邪気さの喪失【2】」からの引用です。
【当時の僕らがやっていたのは、僕ら自身の中にある善良さというフィルムを、無意識のはたらきという映写機を使い、正面のスクリーン、つまり目の前に現れた人物の上に投げかけて作品を映し出す、といった作業であった。
これ、世間で言うところの「いい人」ほどやってしまいがちだ。
で、「ああ、この人もきっといい人に違いない」と早々に評価を下してしまう。 
こうした心のはたらきは「投影(projection)」と呼ばれている。】


特に、今回のように後々まで尾を引くようなトラウマ体験を経た後では、心の中の光も消えかかり、暗闇に一気に呑み込まれてしまいそうな危うい状態にある。
以前なら「人間は基本的に善だ」と信じていられたけど、もうそれも無理。会う人全員に裏表があるんじゃないか、とどうしても勘繰ってしまう。


ね?
あなたは「あの頃」を懐かしがっているわけじゃない。
あなたの心の中を照らしていた光が失われていった、という事実。
単にその事実を嘆き、惜しんでいるに過ぎないんだ。
それを「あの頃は良かった、もう一度戻りたい」といった気持ちと取り違えてはちょっとまずいんじゃないかな。


以下、僕がPsychopath.Free.comの人々から集めた声のうち、代表的なものをご紹介しよう。


...できることならこんな暗黒のような思いは味わいたくなかった。
(これについては全員の意見が一致。)

...犠牲者になどなりたくはなかった。

...かつての幸せと喜びに満ちた日々を取り戻したい。

...まだ怒りがおさまらない。でも、一番腹が立つのはこんな状況に自分を追い込んでしまった張本人がほかならぬ自分だ、ってこと。

...生まれてこの方、「人を許すのは良いことだ」と教えられ、ずっとそれを実践してきた。
なのに、許そうとしたって許せないような卑劣なサイコパスに当て逃げされ、大怪我するなんて。何でこうなるの?

...一体どうして? 何のために私がこんな目に遭わなきゃいけないの?

...ここまでメチャクチャに人格破壊されてしまっては、復旧の見通しも全く立たない。身も心もズタズタ。とても起き上がれそうにもない...。


あなたもきっと、このような問いを幾度も幾度も自分に対してぶつけてきたのだろうね。
大丈夫。
時が経てば、答えはちゃんと出るさ。
というか、あなた自身が自分の力で何とか答えを導き出せるようになるはずだ。


かつて、あなたの心の中には「無邪気さ(innocence)」という美しい宝物がひっそりとしまわれていた。
皮肉なもので、当の本人はそんな宝の存在になど全く気付いていなかったけどね。
そういう宝を心に持つ人だったからこそ、あなたは誰に教えられたわけでもないのに、愛、そして思いやりの心を他人へと捧げ、他人に奉仕するという生き方がごく自然にできていたんだね。
だがその愛はあくまでも他人へと注がれるばかりの一方通行。
あなた自身を育み、あなた自身を潤すために使われたことは、残念ながらほとんどなかった。


今、こうして一歩一歩治癒へと向かって進むあなたの前に、最後の難題が立ちはだかっているのが見えるだろうか。
気持ちの上では相当の抵抗を覚えるんじゃないかと思う。
でも、どうしてもここを避けて通るわけにはいかない。
必ずやクリアしないといけない重要課題なんだ。


自分を尊いと思う気持ち/自尊心(self-respect)を見つけよう。 

他者との間には健全なバウンダリー/境界線(boundaries)をしっかりと引こう。自分は自分、他人は他人...だ。



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 【人が成長の過程で虐待を受けると、境界線の役割を逆転させ、悪いものを内側にとどめ、善いものを外側に閉め出してしまうことが往々にしてあります。メアリーは子供の頃に父親から虐待を受け、適切な境界線を作ることができませんでした。 その結果、彼女は心を閉ざし、痛みを内側にこもらせてしまいました。メアリーは自分から痛みを表現し、心の外に出すことをしなかったのです。また、彼女を癒そうとする外からの援助に対して心を開くこともしませんでした。さらに、他者が絶えず彼女の心の中にさらなる痛みを「落として」いくのを許していました。そのため彼女が助けを求めに来た時には、多くの痛みを抱え、いまだに虐待に遭い、外からの援助に壁を作って心を閉ざしている状態でした。
メアリーは境界線の機能を逆転させなければなりませんでした。彼女には、悪いものを外に閉め出せる充分に強固な柵と、すでに内側にある悪い物を外に出し、なくてはならない善いものを内側に入れるための門が必要だったのです。】 
(「境界線」ヘンリー・クラウド ジョン・タウンゼント、地引網出版、2015、改訂新版、p.45)


自分を他人の尺度にばかり合わせるのはもう止めよう。
 少し周囲の人間を観察してごらん。改めて見てみると、彼らの行動パターンがあなたのそれとは随分とかけ離れていることに驚くだろう。
「え?こんな風にやるのが当たり前だと思っていたんだけど?みんな、そうじゃないの???」
不思議に思うだろうけど、実は当たり前じゃないんだよね。あなたがいつもやっているようなやり方は。


他人の心にそっと寄り添い、思いやりを持って行動する。
愛にあふれ、愛想良く人に接するけれども、全然気取っていない。
責任感が強く、それでいて気が利く。
出会う人・触れる物、全てに対して親切心を忘れない、そんな心優しき人々...。


もし、地球上に生きる誰もがあなたをお手本とし、あなたのように行動するようになったならば、世界は果たしてどれほど暮らしやすい場所になるだろうか。

 pixel2013/S. Hermann & F. Richter@Pixabay


とはいえ、心の中の光が消え失せ、闇落ち寸前といった今のような状態では、さすがのあなたであっても傷付き弱った周囲の人々を治し、元気にしてやるなどという離れ業は到底できるわけがない。


だから、この時期には付き合う人々をよくよく吟味しなければいけない。選に漏れた人々とは無理に距離を詰めなくてもいいのだ。
あなたと似たような美点を備え、そしてあなたの最も素晴らしい部分を真っ当に評価してくれるような人々。
今はそのような性質を備えた人々と交わることだけを考えていればいい。


「もっと早くにそうしていれば...。」
口で言うのは簡単なんだよね。
でも、「無邪気さ」が消え失せた後でないと、からくりの全貌は決して明るみにならないものだ。
一度最初から最後まで通り抜けてみない限り、その仕組みを完全に理解するのは難しいと思う。
何もかもが終わった今だからこそ、あなたはこの世界をあるがままに見られるようになったのだ。
機が熟して、待ちに待ったチャンスがようやく到来したんだね。


旅はまだまだ終わらない。
「あなた」という一人の人間を見つけ出すことが目的なのだから。
そのテーマはこれまでと同様、これから先もずっと変わることはないだろう。


そう。
「自分を見つける」。それこそが旅の真の目的だったんだ。
もう何も迷うことはないよね。
大空へと自由に飛び立つための準備は全て整っている。
後はあなたが翼を広げ、羽ばたいていくのを待つだけだ。






2019年9月18日水曜日

無邪気さの消失【3】

時が経つにつれて、あなたの中にはそれまでに一度たりとも経験したことのないほどの激烈な怒り、そして巨大な虚しさとがわき上がってくるだろう。
その怒りと虚しさに嘘偽りはない。正真正銘の本物だ。
だが、あなたは恐らくそれらを表現する術を知らない。
となると、後はただ途方に暮れるばかりだ。


とりあえずは周囲から期待され、求められている役柄、つまり「ハッピーでお気楽な私」という表向きの顔をそのままキープし続けるしかないのだろう。
下手に生の感情を露わにしたところで、多分誰一人として喜ばないだろうから。
本音はひとまず封印。それが一番無難だ。


しかし、心の奥深いところでは確実に変化が起こりつつある。
いよいよ光も消え失せてしまうのか、と危ぶまれたちょうどその時のこと。
突然あなたの中で何かがはじけ飛んだ。

「あの人たちが憎い!」
「もう、ムカついた!何なの、あの人たち!」
...あなたの中では今までずっと「友達」だと思っていた人々。
彼らに対してのいら立ちが急に抑えられなくなったのだ。
しかも、次から次へと噴き出してくる。


この時期に「友達」と会って時間を過ごすと、家に帰ってもなお頭の中でさっきの会話を再現しては
「あれって一体どういう意味だったのかな」
と考え込むことも多くなるはずだ。
一度その作業に没頭し始めたら、一時間や二時間なんてあっという間に過ぎ去っていく。


「私、心にも無いことばかり言ってたな」
...そうだね。確かに「あなたらしくない」発言はしていたよね。
しゃべりながらも薄々気付いていたんだろう?
今日も例によって「友達」連中は三度の飯よりも大好きな悪口大会で盛り上がっていた。
あなたも一応は彼らに調子を合わせていたものの、内心では「くだらない」と冷ややかな見方をしていたんじゃないかな。


ようやく光が帰ってきたね。
一瞬にしてあなたは正気を取り戻したのだ。
そうなれば、どうしても次の一言をつぶやかずにはいられない。
「違う!あんなのはユーモアなんかじゃない。だって全然面白くも楽しくも何ともないし!」


その瞬間、背筋にゾクゾクッと冷たいものが走っていった。
残酷な現実が稲妻のような激しさであなたを襲ったのだ。
「そうか...私、今までずっと、思いやりの欠落した人たちとばかりつるんでいたんだ...」


sethink@Pixabay

エネルギーが完全に枯れ果てた今のあなたは、まるで切れた電池のようだ。何かを始める気力など残っていない。
どう頑張っても力など出ないのに、今からロケットをドカンと打ち上げる作業に入らねばならない。今の心境はそんな感じだ。
一昔前だったら、何も考えず「好き!」という気持ちを全ての人に対して抱くことができた。
頭ではまだそうできたらいいな、と願っているものの、実際にはそんなの無理に決まっている。
みんな大好き、なんてセリフ、今じゃ口が裂けても言えない。



無慈悲な人々。
薄っぺらく、中身の無い人々。
そうした類の人々にはもうどうにも我慢ができない。
ここまで他人に嫌悪感といら立ちを覚えたなんてこと、今回があなたの人生で初めてではなかろうか。


例のサイコパスをなかなか忘れられず、甘酸っぱい感傷と共に思い出す時だって確かにあった。
でも忘れられなかったのは、別にあいつが「いい奴」だったから、ではない。
あなた自身が心に「光を持つ人」だったから、忘れ去るのが難しかっただけだよ。
あんな奴ではあるけれど、思い出はどうしても捨てられなかった。
それだけのことさ。

以前のあなただったら、悪を目の当たりにしても「臭いものに蓋」「見て見ぬふり」式の対処法を取ることにさほど違和感は覚えなかった。
所詮は二流三流なんだけどね、と気付いていながらも、他人が相手となれば称賛の言葉を惜しみなく送った。
そうすれば自分の点数が確実にアップするからね。



今となってはそれも過去の話。


ようやくあなたは自分の中にある光との和解プロセスに入りつつある。
もっとも、再び光に馴れ親しむようになったからといって、今すぐに幸福があなたの元に舞い込んでくるわけではないよ。
甘い期待は禁物だ。
もし、かつてのあなたが幸福感を感じていたとすれば、それはひとえに今は亡き「無邪気さ(innocence)」のおかげさ。
無邪気さがあなたの中で頑張っていい仕事をしていてくれたからなんだ。
やわらかで繊細な心が外敵に痛めつけられることがないように、周りをぐるりと取り囲んで防御してくれていたんだよ。


あなたは「傷ついた心を癒したい」って本気で思っているんだろう?
だったら、「無邪気さ」と、本当の幸福感との違いを理解した上で、両者をはっきりと区別できるようにならなければならない。
確かな識別力を養っていく必要がある。


かつてのあなたは、サイコパスや、いわゆる「友達」(実はあなたのことを糞味噌にけなしてばかりいたけどね。)と一緒にいた頃の自分は「幸せだった」と信じていたね。それが誤った思い込みであるとも知らずに。
よく考えてごらん。
当時、あなたは自分が心から幸せって言えただろうか?
幸せどころか、あらゆる点で人生が行き詰まり、壁にぶつかっていたじゃないか。
違うかい?


同様に、今はとにかく悲しさで心が押しつぶされそうだ、と感じている人もいるだろう。
だけど、「悲しい」からといって、あなたが「不幸せな人間だ」と確定されたわけじゃないよね?
むしろ逆じゃないだろうか。
あなたの人生は明らかに前よりも良い方向、幸せの方向へと向かっている。
確かに、心の中の光はまだまだ弱々しいかもしれない。
「もっと世界を楽しみなよ!」と誰かが励ましてくれたとしても、とてもそんな気分じゃない、というのが正直なところだろう。
毎日が辛く、しんどい。
仕方がないよね。今はそれ以外には何も考えられないかもしれない。


ただ、しんどいのは事実だとしても、何も永遠にもがき苦しみ続ける必要はないからね。
これは忘れちゃいけない。
あなたの心の中の光は、決して消滅してはいないのだから。
...いつかは必ず「時」が訪れて、再び表舞台に姿を現す日がやって来る。
今はその日をじっと待っているだけなんだ。


まだ頼りなく、一歩間違えばふっと消えてしまいそうな光でしかないかもしれない。
でもね、あなたが再び自信を回復し、他人と自分との間にしっかりとした境界線を引けるようになった頃には、あらゆることが変化していくよ。
大丈夫、心配しないで。
光はちゃんと戻るから。


愛。
霊性(スピリチュアリティ)。
そうした問題に対して、どのように向き合っていったらよいのだろう。
あなたもまた、自分なりの答を求めて今後も長い旅を続けていくはずだ。
そうこうしているうちに、光はますますその輝きを増していく。
いずれは誰一人として無視することなどできないほどに、心の中で大きな位置を占めるようになるんじゃないかな。


2019年9月11日水曜日

無邪気さの消失【2】

僕らの中からは以前のような無邪気さが消え失せてしまった。
残念ながらこれは事実だ。
僕らにはもう、絶えず他人を警戒し、片時たりとも気を抜くことができないような、そんな不毛な人生しか残されていないのだろうか。


いや、そんなことはないはずだ。


確かに無邪気さという性質は失われたかもしれない。
だが、それと引き換えに得られたものもある。
周囲の世界や人間関係を、より現実的な角度から冷静に見られるようになったじゃないか。
晴れてこうしたスキルを習得できたのだから、苦労した甲斐もあったというものだ。


もちろん、以前の僕らはこんなじゃなかった。
当時の僕らがやっていたのは、僕ら自身の中にある善良さというフィルムを、無意識のはたらきという映写機を使い、正面のスクリーン、つまり目の前に現れた人物の上に投げかけて作品を映し出す、といった作業であった。
これ、世間で言うところの「いい人」ほどやってしまいがちだ。
で、「ああ、この人もきっといい人に違いない」と早々に評価を下してしまう。


こうした心のはたらきは「投影(projection)」と呼ばれている。
多分、あなたにも思い当たるところはあるんじゃないかな。

https://pixabay.com

人の本性を見抜けるようになりたい。
あなただってそう思っているよね?
だったらまず、その人がどう振舞うのかをじっくりと観察する習慣をつけよう。
実際にどんな行動に出たか、に注目しよう。大事なのは言葉じゃない。行動だ。
そうすればその人の人となりについての情報はひとりでに浮かび上がってくるよ。
人物評価を下すのはそれから後でも決して遅くはない。



ね?
悪いことばかりじゃないよ。
サイコパス体験を経なければ、このような先々まで役立つスキルを身に付けるチャンスは得られなかったかもしれない。


最初の頃はとにかく悲しさで心が押しつぶされそうになるだろう。それ以外の感情はほとんど湧かない。
そもそも、無邪気さが完全に自分の中から消え去るまでの期間は、心の内側で何が起こっているのか、自分でもよくわからないはずだ。
なくなってはじめてその存在に気付く。
あなたにとっての無邪気さもまた、そういう類の性質だったようだ。


これまで虐待経験を無事乗り越えた人々(サバイバー)にいろいろと話を聞いてきたけれど、次のような感想を漏らしている人が案外多かったように思う。

【悲しみや怒りといった感情を、どうやって外に向かって表現していいのかがわからない。】

いやな顔一つせず、常に明るく、他人のために走り回っている便利屋さん。
生まれてこの方ずっと、家族や周囲の人々からはそうした役割を期待されてきた。
仕事をこなしていく上で、生々しい感情なんてものは邪魔でしかない。
湧いてきたら、即、封印。
彼らにとって、それはごく当たり前の対処法だった。


やがてこうした人々の内面世界は

【誰にでもきっといいところがあるはずだ。 短所ではなく、その人の長所に目を向けてあげよう】

といった「性善説信仰」にじわりじわりとむしばまれていく。
その思い込みは日に日に強まるばかり。一向に衰えることはなかった。
目の前で展開されている光景がどれほど醜く、そして忌まわしいものであってもなお、その頑固な性善説信仰はびくともしなかった。
「欠点ではなく、むしろ長所に着目しよう。」
これがあなたにとっての金科玉条となったのである。


そして遂にサイコパスが登場する。


「どうか良い方へと変わってほしい」
もともとは光輝く「性善説」に満ち満ちた心の持ち主だった、あなた。
持てる全エネルギーを注ぎ、身を粉にして奴のためにさんざん尽くしてみたものの、結局あいつは何も変わらなかった。変わるどころか、その傍若無人ぶりはますますエスカレートしている。
これほど手強い相手に会ったのは生まれて初めてだ。


それでもあなたは諦めることなく、奴に振り向いてもらいたくて、必死の努力を続けた。
少し前に書いた「認知的不協和」という現象も、ちょうどこの時期に生じてくる。
何をやっても、どれだけ尽くしても、あなたの祈りが奴に届くことはない。
全てがむなしく空回りするばかりだった。

────────────────────────────────
【*注:参考記事 「認知的不協和の意味と例」より

「人は自分の信念や、それまでの行動内容とは矛盾する、"新しい事実"を突きつけられると、"不快な感情"を引き起こします。その結果、自分の信念や行動と、"新しい事実"のどちらか一方を否定して、矛盾を解消しようとします。これを認知的不協和と呼びます。そのとき、信念を変えることが困難な場合、人は"新しい事実"の方を否定しようとします。」


論理的思考力と論理的な討論 議論 ディベート ディスカッション のHP(http://ronri2.web.fc2.com/index.html)より引用させていただきました。】



【明らかにダメな相手なのに、無理やり良い相手であるかのようにこじ付けて自分を納得させる】。これも立派な【認知的不協和】と言えます。


~いかにもありそうな話(フィクション)~
「彼、私の誕生日には泊まりでどこか旅行に行こうね、ってあれほど言ってくれたのに。LINEも既読スルーで、もう一週間も音信不通。仕事、忙しいのかな...彼、新プロジェクトの件ではすっごく上司から期待されてるって嬉しそうに話してたもの。ここで頑張らないと後が無いから、とも言ってた。
...そうだよね、忘れられたわけじゃないよね。仕事のことで頭がいっぱいなんだと思う。ここはひとつ、彼の大変な立場を理解しなくては。待っていれば必ず連絡が来るだろうから、黙って応援することにしよう。」
ーーー>その後間もなくSNS上に流れてきた写真で、彼女はこの彼氏が別の女性とハワイで楽しい休日を過ごしていたことを知った。
────────────────────────────────


【理想化】、そして【脱価値化】
天国から一気に地獄、地獄からまた天国へ、といった具合に、両極端の状態を何ヶ月にもわたって行き来させられたことで、あなたの精神は徐々に平衡感覚を失っていく。
一体相手の真意はどこにあるのだろう。
先の展開は全く読めない。



「愛してるよ」
あの人の口から確かにこの言葉を聞いた。
諦めるのはまだ早い。望みを捨てずにいよう。もう少し待ってみよう。
そう自分に言い聞かせたことも、ただの一度や二度ではなかったはずだ。
だが、当時、あいつがどのような行動に出ていたか、思い出して欲しい。
果たしてそこに愛情はあっただろうか?
奴の言っていることとやっていることとの間には、深く大きな溝がありはしなかっただろうか?


罵倒。
非難。
浮気。
嘘。


そもそも、二人が本当に愛し合っていれば、こうした負の要素が間に割って入ることなど、まずあり得ない。
愛あるところに「もう死んでしまいたい」という自殺念慮など生じるはずもない。
心傷ついた人を嘲り、貶めるだなんて、とても愛ある人のすることとは言えない。
あなただって心のどこかではちゃんとわかっていたんじゃないかな。
「この人の中には愛なんてない」ってことを。


そのような辛い体験が積み重なって、一人悶々と思い悩む時間が増えていけばいくほど、怒りの感情があなたの心の奥深くに堆積していく。
怒りだけではない。
うつ状態もまた、日を追うごとに悪化の一途を辿っている。


身も心もサイコパスにすっかり食い尽くされてしまったかのような、そんなあなた。
かつてはまばゆいほどの輝きを誇っていた光も、今や風前の灯と化してしまったようだ。
あなたの強力な光をもってしても、あいつを改心させることだけはできなかった。
このままさらに心労が続けば、遅かれ早かれあなたの方が相手の闇にぱっくりと呑み込まれてしまうに違いない。



もはや誰の目にも明らかだ。
あなたから放たれる光の勢いは、日一日と弱まりつつある。
一体この先、どこまで持ちこたえられるのだろうか。